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喫茶「城の眼」と高松の建築文化(4) [研究ノート]

2-4.「城の眼」の誕生まで 

既述したように、高松市の美術館通りに面して佇む「城の眼」は、昭和37年(1962)に開店した喫茶店である。通りをはさんで日本銀行高松支店があり(現在は高松市美術館)、証券会社や民間銀行も集中するこの一角は、高松を特徴付ける「支店経済」の中核的な役割を担った地域であり、東京や関西の文化を受け容れ、また逆にそれらの地域へ高松の文化を発信できる位置にあった。現に「城の眼」の常連として福井日銀総裁(当時は高松支店長)がおり、また実作では高松とは無縁であった建築家・磯崎新(丹下の弟子)や音楽家・武満徹などの来訪もあったといい、「城の眼」という「場」あるいは「空間」のもつ意味がよく表れている。 

開店当時のリーフレットを見ると、「建築設計:山本忠司、ファサード・室内デザイン:田中充秋、石彫レリーフ:岡田石材石彫研究室、音楽デザイン:秋山邦晴、音響技術:奥山重之助」とあり、「各分野で活躍されている芸術家・専門家のかたがたのご協力をえて、喫茶“城の眼”を開店いたすことになりました。当店は郷土の石を素材として、あたらしい角度から、これを生かしてデザインしていたゞいたものです。(中略)モダン・デザインの空間のなかでしずかな憩いの時間を・・・・・・」と紹介されている。当時は高松には本格的な喫茶店は珍しく、上記有名人も含めて多くの客で賑わったという。

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今回、岡田氏から開店に至る経緯を聞き取ることができたが、それによると「城の眼」はニューヨーク世界博覧会日本館(1号館)の石壁の試作という意味があったという。これは、少なくとも文章化された「事実」としては周知されておらず、重要な知見といえる。具体的には店の奥の石壁(内壁)が、日本館の石壁に使用されたものと同一の石材であり、その試作として積まれたというのである。確かに開店した時期は日本館建設に向けて原石の採取が始まった頃であり、タイミング的には試作とするに相応しい。ただし、加工面に施された流政之の彫刻はばらばらに組まれており、石積みという施工面での仕上がりを確かめるのが目的であったようである。同時に前川事務所や流政之との打ち合わせの場としても使われた。

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ところで岡田氏の聞き取りと設計・施工の役割分担から、「城の眼」立ち上げに主導的な役割を果たしたのは、岡田氏本人であることが分かる。音楽デザインの秋山邦晴は、音楽の着想を得るために岡田氏を訪ねていたことが「城の眼」に関わるようになった直接の契機であり、このことが世界初(おそらく現在でも世界唯一)の石のスピーカー・ボックス誕生へと結び付いた。

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田中(空)充秋は、流政之が岡田氏へ紹介したようであり、この時に岡田氏に届けられた田中の履歴書がある。また山本忠司は当時、香川県土木部建築課の職員であったが、「城の眼」設計には県職員として関わっていない。岡田氏と山本は旧制中学時代からの知り合いであり、そちらの繋がりから設計に関わるようになったのである。とはいえ、ファサードのPC(プレキャスト)コンクリートパネルとそのデザイン(ミュージカル「ウェストサイドストーリー」のイメージと城郭の銃眼デザインの組み合わせ)は、室内とともに田中充秋のデザインであることから、山本の果たした役割は通常の建築設計よりも限定されたものである可能性がある(共同作業の比率が高いというべきか)。 

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このように喫茶「城の眼」は、岡田賢氏という主体を介して「各分野で活躍されている芸術家・専門家」が結び付けられ、実現に至っており、そこにはニューヨーク世界博覧会日本館とは異なる空間が生み出されている。日本館の試作に始まるが、前川が「有機的」な回路への期待を込めたと思われる石壁は内化され、外壁にニューヨークの世界を表す「ウェストサイドストーリー」が表現されているところが興味深い。そこには前川が意図したニューヨークにおける「日本」という演出の主題が分かり易い形で転倒(日本での「ニューヨーク」)され、「モダン・デザインの空間」が生み出されているからである。

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